マエストロ語録
 
 一ヶ月空いてしまいましたが、T、濱口さんの記録されたマエストロ語録の二回目です。
                                                   (編集 鈴木)
2月25日 デュリュフレ レクイエム Introit
冒頭のイメージは、(もやに包まれた)僧院から聞こえてくる高僧の祈り(男声)と、それに応える天使の歌声(女声)のイメージ。ここは女声のほうが難しい。児童合唱を使いたいところだが、あえて大人でやっている。・・・女声は天使の声を意識して、うんと明るく、上(天)から響きが降ってくる感じで歌うこと。      (練習番号4まで?は暗譜すること)
 
Intoroit 5頁 練習番号4 3〜8小節 ソプラノ
歌ミサ(グレゴリオ聖歌)の感じで、歌うでもなく喋るでもなく、言葉のイントネーションがつながっていく感じ。アクセントはリズムではなく、言葉のイントネーションに従う。拍頭であっても、イントネーションが語尾であれば、アクセントは入れない。 ここのイントネーションの表現は、リズムに合わせて一生懸命歌詞を言う練習をすること。
 
全体的に
ラテン語の母音の音列はイエアオウ。・・・ア-オはかなり中が広い。エクサオディに近く歌うことだけで、響きが気持ちよく感じられると思うが、この響きの文化が必要(日本には無い)。一つの母音の響きの後に、次の母音の響きがポーン、ポーンと飛んでいって、聴衆には、まっすぐな響きが届くこと。3連符は拍が回転していく=加速の波が有る。(同じ速さではない)
 
Intoroit 6頁〜7頁 練習番号7 3〜5小節 ソプラノとテノール
此処は、高僧と天使がいっしょに祈るイメージ。高めの5度が必要。
 
Kyrie 全体的に
Altが少し歌うだけで、Tenが生きてくる。Tenをこう歌わせたいから、Altはこう歌う、Altがそう歌うのであれば、Tenはこう歌う・・・これが合唱団が撓っている状態。Altが何もせずにTenだけが気持ちよいといって勝手に歌えば、それはカラオケ。 そっちがそうくるならこっちはこう行く、こう行かせたいから、こうする、というパート間のやりとりをしながら歌うと、うねりが出始める。それが同じ方向にむくと凄いうねりになる、それを味わって欲しい。 だけど酔わずに、冷静に縦の線はそろえること。それが難しい。
Kyrie 11頁 練習記号12あたりからのソプラノに
長い音符のイメージは、雲にスッと開いた切れ目から、スーッと光がさして来る感じで。
 
Kyrie 全体的に(後出のLux aeternaにも共通)
「5度は神の声」である。1度、5度、8度がちゃんとすれば、良い音がする。それが出来るのが良い合唱団。 
 
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「ミサ」って?  「レクィエム」って?
                                                      大沢 栄子
こんなテーマを頂きました。特に内容的なことに重点を置いて、と。これまで「宗教曲」というだけで漠然と歌っていたかも知れません。しかし確かに、その内容と流れの意味を知ることは、表現にとって大事なことでしょう。N響を指揮していたブロムシュテットさんも次のように言っておられました。「宗教曲を演奏する演奏者は、特に信仰深い必要はないが、宗教に対する感受性が必要である」と。できればその感受性を高めて、より深い演奏ができればと期待しつつ、内容的なことに触れていきたいと思います。
 
では先ず基本になる「ミサ」から。
交響曲は第1楽章、第2楽章と続いて大抵の場合第4楽章まであり、早いテンポ、遅いテンポ、ダンスのリズム、最後の華やかさなど、例外はありますが3乃至4つの部分に分かれています。また古くは舞踊組曲という一連の形式があって、アルマンド・クーラント・ジーグ・メヌエット・ガヴォットなどと拍子やテンポが次々に変わっていくものでした。しかしそれらは、殆どの場合言葉を伴なわず、標題があったとしても、言葉で具体的に表せるようなことを示す目的は持ちません。あくまで音楽的な表現であることは言うまでもありません。
ミサ曲」はご存知のとおり、「キリエ」「グローリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」の5つの部分を基本にしていますが、これらは先に挙げた4楽章形式や組曲形式と異なり、すべて定められた“ことば”で歌われるので、この一つひとつにははっきりとした内容とそこに置かれるべき順序があります。つまり“ことば”が大切なのです。
 
ミサ」は正式にはミサ典礼(儀式と言っても良いかも知れません)を指し、カトリックの礼拝として定められた典礼文を中心に進められます。実際には小ミサは毎日行われていて、それも「朝課」(Te Deum)や「晩課」(Vesper)などさまざまな形のものがあります。これらも音楽になっている場合があるので名前としてはご存知の方も多いかと思います。
その中心になるのが「ミサ」です。イエス・キリストの十字架はよく13日の金曜日などと言われますが、13日はともかく、金曜日であったのは暦の上での事実です。3日目に復活された、すなわちそれが主の日(日曜日)で、日曜のミサ・礼拝は常にイエスの十字架上の犠牲と復活の記念として行われているのです。ですから日曜の「ミサ」が最も大切なものとされるのは当然のことです。
ミサの典礼形式はグレゴリウスT世(590―609在位)の時に定められ、定着したと言われています。典礼文には、教会暦によってそれぞれの日のために定められた“ことば”があり、これを「固有文」と呼びます。それに対して毎回同じ“ことば”が用いられる部分を「通常文」と呼びます。ミサは「固有文」と「通常文」そして聖書や式文を朗読或いはグレゴリオ聖歌を歌うなどで進められ、またさまざまな意味を込めた所作を伴っている儀式です。(現在はグレゴリオ聖歌よりも、その後に新しく時代にマッチして作られた聖歌が用いられるのが一般的です。)
ミサ曲」は毎回決まって用いられる通常文のみを音楽にした特別なものと言って良いでしょう。ときには「イントゥロイトゥス(入祭唱)」「グラドゥアーレ(奉献唱)」が入ることもあります。
 
さて、ミサ全体が“ことば”も順序も定められていると言うと、すぐに思い浮かぶのは“形式的”ということではないでしょうか。確かに、形式的に行うことは可能かも知れません。しかし「ミサ」が形を為していくまでに、どれほどの年月と信仰者の情熱が傾けられただろうと、私は想像するのです。その内容と進み方は驚くほど有機的で緻密で、「ミサ」を司る者と参加する者の心を信仰的に次へ次へと、移るべくして移し導いていく優れた順序になっています。単なる「次は○○」というようなプログラムではありません。
ミサに先立って「告解」が行われることがあります。この世の生活の中で神の教えに沿わない行いをしたことを神の前で告白し、司祭に神の赦しを祈ってもらいます。告解をしないまでも、誰もが日常生活の中で神の教えに沿わない行いや思いを持ったこと(法的な意味でなく信仰的な意味での“罪”)に懺悔の思いを持ちつつ、「ミサ」に参加するのです。
ですからミサはその日のミサの意味を知らせる固有文「イントロイトゥス(入祭唱)」の次に先ず「キリエ(憐みの賛歌)」が来るのです。“主よ憐み給え。キリスト憐み給え。主よ憐み給え”と短いフレーズをそれぞれ3回唱え(歌い)、罪の告白に対する神の憐れみを願います。赦しを願うにはあまりに日常的に人間は神に背き続けています。そのような人間に赦しでなく憐みを願う“キリエ・エレイソン”ということばに「キリエ」の切実さを感じます。キリエが最初に置かれる意味はここにあります。実はミサの“ことば”の中でこの部分だけがラテン語でなくギリシア語です。それだけ古くからこのフレーズは、信者の間で大切に伝えられてきたものと思われます。
次に「グローリア(栄光の賛歌)」です。ミサの中心は“神を称える”ことにあります。人間が神に何かを願い祈るのがミサではなく、どんな状況にあっても“神を称える”ことがキリスト教の原点です。グローリアの歌詞は“いと高き神に栄光あれ、地上では善意の人々に平和を”と始まりますが、これまで歌ったミサ曲の対訳をお読みくだされば、神を称え感謝を捧げる表現を読み取って頂けるでしょう。これらの“ことば”は、キリストの誕生を詳しく記述しているルカのよる福音書の2章14節にある、天使の大群の歌に由来し、そのあとに神をほめたたえることばが続いています。
 
祈りや聖書の朗読、司祭と会衆とのやりとりなどは、ミサの随所に入ります。グローリアの後「アレルヤ神を賛美せよ)」(や「トラクトゥス(詠唱)」)が入ることもありますが、これは固有文ですから、ミサの中で必ずしも“アレルヤ”が歌われ(唱えられ)るとは限らず、アレルヤがミサに定位置を持っている訳ではありません。
 
続いて「クレド」になります。これは信仰の告白で、自分の信じる神はどのような神であるか、イエス(イエスは名前、キリストは“救い主”の意)は何のためにこの世に来られ、どのようにして十字架につけられ、人間の罪の救いを達成されたかを言い表す定型文です。時代によって、或いは信仰集団によってその重点や表現は少しずつ異なり、“ニケーア信条”“カルケドン信条”“日本基督教団信仰告白”など、いくつもの定型文が作られてきました。ミサ曲で歌われるのはほとんど“ニケーア信条”です。「クレド」は、ミサに集う者の信仰が一体であることを確認する大切なものです。
 
この一体感を持って、次にミサの頂点である聖体拝領の儀式に入ります。これは、キリストの体と血とが犠牲にされたことを受け止め、心に刻むために行われるもので、“最後の晩餐”を思い出させる儀式です。イエス・キリストが神のひとり子としてこの世に降られる前、すなわち旧約聖書の時代には、人々は神に赦しを乞うために神殿に行き、小羊を生贄として捧げたのでした。その小羊の代わりにイエス・キリストが犠牲となってくださったというのが、犠牲としての十字架の意味なのです。
この聖体拝領に当たって先ずここで「サンクトゥス(感謝の賛歌)」が歌われます。“聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 万軍の主”と神を称えるのですが、この“ことば”は新約聖書の最後の文書「ヨハネの黙士録」4章8節に由来しています。キリストの再臨の時にも、すべてのものが神を賛美していることを預言するものです。
 
次にくる「アニュス・デイ」は“神の小羊”という意味です。「平和の賛歌」とされていますが、“世の罪を取り除く神の小羊よ、私たちを憐れんでください。平安を与えてください”と、犠牲となられたイエス・キリストに憐れみを乞い平安を求めます。ヨハネ福音書1章29節にこの“ことば”が出ています。洗礼のヨハネというイエスの前に現れた預言者が、「見よ、この方こそ世の罪を取り除くために神から遣わされた神の小羊だ」と人々に告げたのです。“神の小羊”という独特な呼び名はこのような意味を持つことを念頭に置かれると良いと思います。聖体を受ける前に、キリストの犠牲の意味を確認する通常文です。
 
最後に聖体を拝領するのがミサの本質です。“最後の晩餐”さながらのパンとぶどう酒が、犠牲となられたキリストの“体と血”の象徴として与えられます。そして「Ite Missa est」(行け、ミサは終わった)と解散が告げられて終わります。「行け」とは、キリストの恵みに与った者がそれぞれの持ち場に戻り、神の教えに沿って生きること、その生き方によって周囲に神から受けた光を反射させて生きよ、との、この世への“派遣”のことばなのです。この“Missa”ということばが、典礼全体を指す名称となりました。
 
先にも述べたように、この5曲はミサの通常文だけを作曲したものですから、これだけでミサの流れを充分に感じ取ることは難しいでしょうが、これまでの説明で意図と流れが少しでもお解りいただければ幸いです。
 
なお、対訳では全体の意味は解りますが、それぞれの語の意味を把握しておかないと、大切な語よりもbe動詞に力を込めて歌うようなことになりかねません。ラテン語の主格・所有格・目的格などの変化はとても大きいので、同じ語の変化とは思えない場合がありますから、対訳と見比べながら大切な語をチェックして置くことは、歌う上で注意したい点だと思います。
 
レクイエム
 
 「レクィエム」は“死者のためのミサ”と呼ばれるように、葬儀のミサです。個人の葬儀のために依頼されて作曲されたものがほとんどです。レクイエム・ミサは「諸死者の記念日(11月2日)」にも行われましたが、通常のミサとは異なる定型文が用いられます。最初の入祭文が「レクィエムエテルナム(永遠の安息を与え給え)」ということばで始まるので、レクイエムと呼ばれるのです。
 
 「レクイエム」の日本語訳をしばしば“鎮魂曲”とされますが、これは正しくありません。これを説明するには、キリスト教の“死”についての受け止め方を述べておかねばならないでしょう。
 
 どの宗教にも死生観があります。人はその生き方によって死後の世界が決まるなどと言われます。でも誰も死んだことがないので、本当のことは誰も知りませんから、さまざまな考え方が生まれてきます。しかし“魂を鎮める”ことを祈ったり、“安らかにお眠りください”と死者に呼びかけるような発想は、キリスト教の範疇にはないのです。
 
キリスト教の考え方の中に死後の「裁き」というものがあります。ミケランジェロの有名な“最後の審判”の絵は、十字架上で死なれ復活して天に昇り神の右に座しておられるキリストが、世の終わりに再臨され(再び来られ)、死者すべてをその生きてきた生き方に従って裁かれる、という場面を描いています。この考え方は中世からルネサンスに至るまでかなり強く人々の中に浸透し、善行を積まねば恐ろしい煉獄に落ちるということから、免罪符という手段にまで移行してしまったのでした。
 この考え方は楽曲としてのレクイエムにおいては「ディエス・イレー(怒りの日)」(すなわち最後の審判の日)に表れています。レクイエムの曲のうち約半分がディエス・イレーで占められているものさえ現れました。しかしこの行き過ぎた煉獄思想に疑いを持ったマルティン・ルターが1517年に宗教改革を起こして現在のプロテスタント・キリスト教となり、それに危機感を感じたカトリックに反動宗教改革運動が始まって、典礼改革に移行しました。つまり、教会は中世の先に述べたような行き過ぎた考えから脱却し、死を恐ろしいものから安息へと受け止め方を変え、“裁き・審判”の日から”神の意思の成就“へと表現も変えていったのです。このことは長い検討の結果、第2ヴァチカン公会議(1962〜1965)で正式に決められたので、その後レクイエム・ミサは典礼としては廃止されました。
 
 典礼としてのミサに個人的な色彩は全くありませんが、レクイエムは“死者の葬儀のミサ”と11月2日の“信仰者の死者を追悼するミサ”の2つの機会のためのもので、ある意味で個人的な色彩を持っていました。しかし死者の魂を鎮めることは勿論、生きていた間の罪の赦しを遺された者が願うような、人間の領域の問題としては把えることはできません。
ですから先に述べたように、レクイエムの日本語訳として使われる“鎮魂曲”は間違いで、死者を神の手に委ね、神による光と安息のうちに再臨の日までの休息を願いつつ、神を称えるのが目的です。レクイエムは「死者のためのミサ」が正しい日本語訳です。
 
全体の形式は通常のミサ順序とはかなり異なりますが、あくまで基本の形はミサであることを次の順序で確認できると思います。
 
イントゥロイトゥス (入祭唱)
○キリエ (憐みの賛歌)
グラドゥアーレ (昇階唱)    
○トゥラクトゥス (詠唱)
 ※ミサのグローリアの位置と考えて良い
ディエス・イレー (怒りの日)       デュリュフレはこのテキストの最後
  の部分だけを取り上げて第5曲ピエ・
  イエズとしている。
オッフェルトリウム (奉献唱)      [デュリュフレでは第3曲]
○サンクトゥス (感謝の賛歌)
○アニュス・デイ (平和の賛歌)
コンムニオ (聖体拝領唱)        [デュリュフレでは第7曲]
 
 このあと、赦祷式の2曲が続きます。
リベラ・メ (解き放ちたまえ)
イン・パラディズム (楽園にて)
 
イントロイトゥス」すなわち“レクイエム エテルナム ドナ エイス ドミネ”(主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ)と歌い始めるこのミサの入祭唱が必ず最初に来ます。
キリエ(憐みの賛歌)」はここでも重要なものです。
祝祭的な「グローリア」や信仰告白である「クレド」は省かれ、その代わりに全体は終始、死者の安息を求める祈りです。
ミサの中の所作を伴う部分に音楽が付けられて、所作はより一層重々しく行われます。
コンムニオは基本のミサのときに述べた、ミサの中心である聖体拝領の前の曲で、死者のためのミサであっても、聖体拝領はミサの頂点として行われることが判りま
す。
 
ちなみに、デュリュフレのレクイエム
(1947)はディエス・イレーを持つ最後のレクイエムと言う見方がありますが、この考えに私は同調できません。何故なら、本来のディエス・イレーの位置にあるピエ・イエズはディエス・イレーのテキストのほんの一部でしかありませんし、リベラ・メの後半に現れるディエス・イレーは、リベラ・メのテキストの中にあるものであって、本来のディエス・イレーの位置とは全く違うからです。
(もうひとつ蛇足ですが)デュリュフレが彼のレクイエムの各部分に、グレゴリオ聖歌をほとんどそのままの形で用いているのは、演奏効果を狙うよりも典礼に忠実という感じを与えて、大変好ましく思っています。
 
※この文章は、リーダー会が前団員だった
 大沢さんに特別に依頼し、湘フィルのた めに書いていただいたものです。
 
 
 ♪大変遅くなりましたが、デュリュフレ期 から入団された皆さんです。いつもの様 にアンケートに答えて頂きました。
   @ 湘フィルを何で知ったか
   A 湘フィルの印象、感想
   B 自己PR、湘フィルへ一言
 これからも、そうぞよろしく>
 
(バス)駒村 さん
 
@ 「ヨハネ受難曲」の演奏会を聴いて&団員に誘われて
A 楽しく練習に参加しています。松村先生、斎藤先生のユーモアある指導により、好きなクラッシックに対する理解が深まっています。
B 私以外の家族は楽器を演奏するので、肩身が狭かったが、湘フィル団員となりコンプレックス解消!
 
(アルト)加賀  さん
 
@ 母が団員なので
 (アルトの丸山慶子さんのお嬢さんです。(編者注)
A 毎年演奏会を聴かせて頂き、大きな合唱団の心がひとつになり歌う姿に感動しております。温もりのある素晴らしい合唱団だと思います。
B 歌が大好きな娘と共に入団させて頂きました。親子共々よろしくお願い申し上げます。
 
  (ソプラノ)加賀 さん
 
@ 祖母が団員
A 大きな合唱団で迫力がある。
B 混声合唱は初めてなので、これからも楽しんでいきたいです。
 
 (アルト)硲 さん
 
@ クリスマス・コンサートを聴いて
  &松村先生ご指導の女声合唱団員の紹介で
A 人数が多いのにびっくりしました。
  男性も他の合唱団より多いと思います。とても素晴らしいハーモニーだと思います。
B 皆様に必死について行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
(ソプラノ)玉上 さん
 
@ ヴェルディ「レクイエム」他の演奏会を聴いて&団に知人がいる
A 今まで主に女声合唱だったので、
  ハーモニーの厚み、深さに感激してワクワクしています。練習方法も工夫されていて、とても熱心だと感じました。
B もともとオーケストラの曲が好きなのですが、昨年フォーレのレクイエムを歌ってフランス音楽の不思議な魅力にはまりました。今回のような合唱に参加できてとても幸せです。頑張りますので、よろしくお願いします。
 
 (アルト)塚越 さん
 
@ 団員に誘われて
A ご指導下さる先生方の多さにびっくり!しかも皆様一流の方ばかり!すごくぜいたくな団です。(他にはないのでは?)
B 「プーランクをやるから来ない?」 のひと言で仲間に入れて頂きましたが、ついて行かれますかどうか。
  老化の坂道をころがりおちている今、少しでも努力してまいりますので、よろしくお願いします。

(バス)塚越 さん
 
@「ヨハネ受難曲」の演奏会を聴いて
  &団員に誘われて
A みなさん練習熱心で、先生方もすばらしい。
B 20世紀の曲は余り歌っていませんので、ご迷惑をかけますがよろしく。

 (アルト)小西 さん
 
@ どこかの演奏会でプログラムに入っていたチラシを見て
A 熱い。エネルギッシュ。
B 他の合唱団にも入っており、毎月の田舎通いに、自身も風邪を引いてばかりで、これ以上のことは無理とわかりつつ、湘フィルでプーランクとデュリュフレが歌えるという魅力に負けて、入団の申し込みをさせて頂きました。どうぞよろしくお願いいたします。
 
5月&6月の練習日程 ËÌ   

4月




5月


   ª





6月


   ª
 29日(土)




 6日(土) 

13日(土)
21日(日)
27日(土)




 3日(土)
10日(土)
17日(土)
25日(日)
 明治公民館          § 18:15 〜 発声(ホール)
               分奏 19:00 〜 女声(ホール)
                        男声(文化室)
               tutti 20:00 〜 21:30

 © 女声:玉縄学習センター   18:15 〜 21:00 
   男声:明治公民館(文化室) 19:00 〜 21:00 
 玉縄学習センター        18:15 〜 21:00
 明治公民館           18:15 〜 21:00
 明治公民館          § 18:15 〜 発声(ホール)
               分奏 19:00 〜 女声(ホール)
                        男声(文化室)
               tutti 20:00 〜 21:30

 玉縄学習センター        18:15 〜 21:00
 玉縄学習センター        18:15 〜 21:00
 明治公民館           18:15 〜 21:00
 リリスホール            18:15 〜 21:30 ¨
    
 
 
 ©5/6(土)は男声、女声で会場が分かれての分奏となります。男声はスタートが通常と異なりますのでご注意下さい。        
    §4/29(土)、5/27(土)は同一会場(明治)での分奏、tutti です。
     終了時間が延長になりますのでご承知願います。
     文化室での練習にはスリッパが必要です。男声の方はお忘れなく>
    ª5/21、6/25は日曜日の練習です。お間違えなく。
    ¨リリスホールでの練習は21:30までです。ご注意下さい。