ささやかにバッハを その3
B 鈴木 愼吾
 「荘厳ミサ曲」と言えば大抵の音楽ファン、合唱ファンはベートーヴェンのあの偉大な曲を思い浮かべるだろう。では「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」と言ったら? これも恐らく大半の人がバッハの作品を思い浮かべるに違いない。「荘厳ミサ」も「マタイ…」「ヨハネ…」も本来固有名詞では無いし同種の曲は他にも沢山あるのだけれど、今挙げた三つの曲はこれらを代表する曲として、あたかもその名で呼ばれる唯一の曲であるかのように考えられるほど傑出した存在なのだ。特にその他の受難曲となると音楽史の中に埋もれてしまって殆ど姿を現さない、時にハインリッヒ・シュッツの「マタイ受難曲」が、ちらりと顔を見せることはあっても……。
今回は簡単に受難曲が生まれ育ってきた道筋を、例によって聞きかじり読みかじりで書いてみたい。
 【受難曲の成り立ち ─バッハのその曲に至るまで─
イエスの受難の記事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されているが、中世の教会では復活祭の一週間前の日曜日(枝の主日、ルター派では棕櫚の日曜日)、続く聖火曜日、聖水曜日、聖金曜日に福音書の受難記事の朗誦がなされていた。
13世紀になると朗誦を行う者は一名ではなく、助祭が福音書記者(エヴァンゲリスト)を、司祭が低い声でイエスを、その他の人物を副助祭がというように変化してきた、更に教会の外では衣裳を付けて演劇風に上演されるようになり、やがて「受難劇」が誕生する。
やがて15世紀ルネサンス時代、音楽の多声化とともに受難曲も多声化されるようになった。曲全体が多声化されたものを「通作受難曲」。多声と単声が含まれるものを「応唱風受難曲」と呼ぶ。オルランド・ディ・ラッソやトマス・ルイス・デ・ビクトリアなどの大家も応唱風受難曲を書いたが、通作受難曲はドイツにその例が多い。
宗教改革後のドイツではルターの友人ブーゲンハーゲンによって「調和福音書」が作られた。これは先の四福音書の受難と復活の記事を互いに補うよう綴ったもので、ルターが説教に用いたことから大きな影響力を持つようになり、このテキストによる受難曲が多く創られるようになった。シュッツの「十字架上の七つの言葉」もこれに由来する。バッハがヨハネ受難曲のなかにマタイ福音書からの聖句を取り入れたのもこの流れを汲むものと考えられる。
17世紀半ば、北ドイツでは、それまでと違い楽器を用い、聖句によらない自由詩や讃美歌を挿入する受難曲が作られはじめた、これは「オラトリオ受難曲」と呼ばれ、バッハの二作品は共にこの形に依っているが、バッハが活躍した時代には、既に全曲を聖句(福音書の記述)によらず、新たに作られた詩による「受難オラトリオ」が主流となっていたから、バッハの作品は時代の趣味が急速に変化する中で、非常に保守的な形であった。
1724年に初演された「ヨハネ受難曲」は1749年までの間に3回上演されたが、その都度改訂を繰り返した。1725年の第U稿の冒頭に置かれたコラール合唱曲(人よ、お前の大きな罪を嘆くがよい)はそのままの形で移調されて「マタイ受難曲」の第1部の終曲に置かれていることはご存知の通りである。この第2稿に取り入れられた各楽曲は、その後の改訂で破棄され第1稿に近い形に戻った。
現在では通常1749年の第4稿(最終稿)によって演奏されるが、私たちの演奏会では、それに加えて第2稿の中から第11曲「天よ裂け、地よ震えて」が歌われるのはとても楽しみだし期待したい。
「ヨハネ」の構成が第22曲のコラールを中心とした対称形であることは良く知られているが、バッハの作品には、その他に曲に隠されている数字の意味(B・A・C・Hを14の数字で表すなどが最も良く知られている)やドイツのバロック音楽に欠かせないフィグーラ(定型=特別な音の使い方や音型で、ある情念を表現する)など興味深い事柄も多い。(でも一方では余りにこれらの詮索が過ぎるのも???である)
因みに、テノールのI氏から(バッハアンサンブルコール)団員の書かれた力作「ヨハネ受難曲概説」をご提供頂いているのでお読みになりたい方はお申し出下さい。
 
 【苦闘のライプツィヒ ーその後―
トーマス教会のカントルとして就任以来、獅子奮迅の働きをして1年分のカンタータを完成させたバッハはコラールカンタータと言う新しい形式で2年目を開始した。コラールカンタータは各楽章が一つのコラールから導き出される作品で、全曲に亘って、コラールの歌詞と旋律が様々に引用される。こうして勤勉に働いて来た2年目を過ぎても、バッハを巡る環境は決して芳しいものでは無かった。カール・ガイリンガー(アメリカの音楽学者)は「創造力の絶頂にある作曲家を学校の、しかも秩序の乱れた学校の教師として雇うこと自体が、一つの矛盾」と書く。教会音楽を巡る環境の改善を求めた要望書は当局の不快感を助長してしまったし、採用の条件の一つだったラテン語の授業を免除されるためにバッハ自身が雇った代用教員の勤務成績をめぐっての非難、バッハの頑固な態度にも原因があるらしいのだがカントルにふさわしくないとの理由での譴責、減俸処分。
それに対するバッハの反発。争いの中で1725年以降「マタイ受難曲」のような大曲はあるものの、カンタータの数が減少するのは、バッハの中で教会音楽に対する熱意が薄れたからだろうか?
そのような状況の中、1730年、バッハの友人で教育者としても人望の厚いゲスナーという人物がライプツィヒに赴任して来たのは救いであった、彼はバッハを高く評価していたし、市側もゲスナーを信頼していたのでバッハの不満もある程度改善されたらしい。
1929年から、バッハはテレマンが創設した「コレギウム・ムジクム」(大学生を中心にした音楽団体)の指揮者となった。この組織は市の管理からは全く離れた存在だったので、さぞかしのびのびと仕事が出来たことだろう、その上にライプツィヒ音楽界の顔として自分の勢力を誇示することができた。特に1734年ザクセン選帝候がライプツィヒを訪問した際には600人の学生が松明を掲げトランペットとティンパニ、合唱で恭しく候を迎えた様子が語られ、晴れ舞台でのバッハの得意もさぞかしと思われる。この時期はケーテン以来最も多くの器楽世俗曲が作られ「管弦楽組曲」の第2番では雅やかなフルート独奏を聴かせ、あの「G線上のアリア」に編曲されたアリアを含み華やかな雰囲気に満ちている第3番もこの頃作曲された。またバッハ自身が独奏するチェンバロ協奏曲も呼び物であったと言う。
1733年にはドレースデンの宮廷に「ロ短調ミサ曲」のキリエとグロリアを献呈した、ドレースデンはカトリックの町であり、バッハが、もしここに就職したい希望があったとしてもケーテンの時代と同じように宗教をめぐる悩みが生じたかも知れない。しかしこの熱心な働きかけによってバッハは「ポーランド国王およびザクセン選帝候宮廷作曲家」の称号を受けた。
1734年ゲスナーが去ると、新しく校長となったヨハン・アウグストとの間にまたもや争い事が発生する、これは多くの人を巻き込んだ泥試合となり冷戦状態はバッハの死まで続いたらしい。加えて、嘗てバッハが試験官を勤めたニコライ教会のオルガニスト試験に応募しながら落選した若いシャイベと言う人物が音楽批評の仕事を始め、その著作の中でバッハの作品を痛烈に批判した。この批判がバッハの作品の価値を露ほども損なうものでは無いが、バロックの様式が衰え、イタリア、フランスからドイツにも流行りつつあった優美なギャラントスタイルを好む同時代人から見れば、やたら難しく古臭く感じられたのだろう。
後、彼は流行に迎合せず、ひたすら彼にしか出来ないことに集中し「ゴルドベルク変奏曲」「平均率クラヴィーア曲集第U巻」そして「ロ短調ミサ曲」を完成させた。
1947年には次男カール・フィリップ・エマヌエルがクラヴィーア奏者として勤めていたベルリンのフリードリッヒ大王の宮廷を訪れ、王の主題による三声のリチェルカーレ(バッハの時代ではフーガと同義)を即興演奏し宮廷の人々を驚嘆させたらしい、後にこれは印刷され「音楽の捧げもの」として王に献呈された。
バッハの最後の作品といわれる「フーガの技法」。最近の自筆譜の研究から「音楽の捧げもの」より早く作曲が開始されたらしいが、これらをまとめつつある中で眼病が悪化し、1750年遂に力尽き帰らぬ人となった。その自筆譜には次男エマヌエルの手で「対位主題にB・A・C・Hの主題が持ち込まれたこのフーガの途中で、作曲家は死去した」と書き込まれている。
―完―

   “グロリア・バザー”のお知らせ
 
     5/3(火・祝)10:00頃 〜
         鎌倉雪の下カトリック教会
 
   今年は準備が間に合わず、
   恒例の湘フィルの出店は見送りとなりました。残念…=
   でも… おサイフ持って… ぜひとも出掛けましょう>
   来年の夏、いよいよグロリア少年合唱団の子ども達はポルトガル、
   スペインへ向けて演奏旅行に出掛けます。ポ〜ンと背中を押してあげる
   そんな親心(?)で応援しましょう。 イザ>
ÓÔÑÒÓÔÑÒÓÔ 新 入 団 員 紹 介 ÓÔÑÒÓÔÑÒÓÑ 
 
   ♪ヨハネ期から入団された方にアンケートに答えて頂きました。
   @湘フィルを何で知ったか A湘フィルの印象、感想 B 自己PR、湘フィルへ一言
 
(アルト)斎藤 さん
 
@ 「ドイツ・レクイエム」の演奏会を聞いて
A 団員に合唱経験の豊富な方が多く、レベルが高い合唱団という印象です。  松村先生の楽典的なご指導と斎藤先生の緻密なヴォイストレーニングに毎回緊張しながらも混声の魅力を満喫しています。
B 役員の方々のきめ細やかな対応に感謝です。

(アルト)遠山 さん
 
@ 団員に誘われて
A これぞ混声だ!と思いました。    役員さん達のきちんとした組織の運営で気持ち良いです。
B 皆様の一員として受け入れていただき、一緒に練習出来る幸せを感じています。
(バス)金谷 さん
 
@ 「スタバト・マーテル」の演奏会を  聴いて&昔の合唱仲間が数名いる。
 松村先生の指導法が好きだ。
A 運営をやっておられる方を始め、とてもfriendlyである。これは大合唱団が歴史を重ねると、とても独断的、セクショナリズムになっているのが世の中に多いが、それが感じられないのは素晴らしいことと思います。
B 合唱歴は長いが、基礎の無さを痛感  している。この7〜8年、声楽は常  に個人レッスンで勉強している。
1人でソロを歌う正しい歌い方で、アンサンブルを作るのが今の理想。  常に詩を相手に、正確な音程で伝えることでは誰にも負けたくない。
(テノール)増村 さん
 
@ 団員に誘われて
A 大勢の人の練習は久しぶりで、皆さ んの勢いに少し押されてしまったように感じました。
B みなさんの足手まといにならないよう、がんばっていきたいと思います。

(アルト)成田 さん
 
@ 団員に誘われて
A とてもハイレベルな合唱団だと思い  ます。先生方の素晴らしいご指導、団員の方々の熱心な練習に刺激され練習日が楽しみです。
B 2000年10月トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラ&合唱団のマタイ受難曲の演奏を聞き、大変感動しました。  私はミサ曲が大好きですが、5年経ってレベルの高い湘フィルに入団し、同じバッハ作曲のヨハネ受難曲を歌うことができるなんて夢のようです。  難しい曲ですが、練習はとても楽しいです。よろしくお願い致します。
 (アルト)中出 さん
 
@ HPを見て
A 団員の皆さんが真剣に練習に取り組む姿にいままでの自分を少し、反省しました・・・。
B 宗教曲の大曲をほとんど歌った事のない私にとって、レコードやCDで聴いていた曲を歌える事がとてもうれしいです。よろしくお願いいたします。 

(アルト)菊池 さん
 
@ 「マタイ・受難曲」「讃歌」を聴いて
A 音色が透明で、よく揃っており、とても美しい合唱団だと思いました。実際ご一緒に歌わせて頂くと、皆様よく勉強されており、進むのも早くこれは心を引き締めて努力せねばと思いました。松村先生、斎藤先生のご指導も大変素晴らしく毎回楽しみです。
B 本格的に歌い出して十数年が経ちました。この年になってもまだ少しずつ進歩出来るのが楽しみです。また歌っていない曲にバッハの「ロ短調ミサ」ベルリオーズの「レクイエム」等があり、又、ジョン・ラターの「グロリア」や「マニフィカートももう一度歌いたいです。
 
 
           ソプラノ  寺谷千枝子さん
 
 東京芸術大学卒業、同大学院修了。ハンブルク国立音楽大学声楽科、オペラ科ともに 主席で卒業。1980年オランダのセントヘンボス国際声楽コンクール第2位入賞。
 1981年ドイツ・ブレーマーハーフェン歌劇場で「バラの騎士」のオクタヴィアンでデビューする。83年ボン歌劇場と専属契約を結び、本格的な活動を展開する。
 90年より拠点をハンブルクに移し、フリーの歌手としてヨーロッパ各地の歌劇場に出演する。幅広いレパートリーを持ち、世界的ブームとなったポーランドの作曲家グレツキの交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」の各国初演を歌う。日本でも小澤征爾はじめ著名な指揮者のもとオペラ、オーケストラの数々のステージに迎えられ、ヨー ロッパでの名声を裏付ける実力を披露して、高い評価を得ている。
 
 
 
 湘フィルTシャツ販売について

   今年も合宿に向けて、Tシャツの販売を致します。
   ご希望の色、サイズ、マーク、枚数を受付の申込用封筒にご記入の上、
   代金を添えてS柏木までお申し込み下さい。

      色  :見本帳からお選びの上、ナンバーを記入して下さい。
     サイズ :男性用サイズです。(女性は1サイズ下で可)
     マーク :湘フィルマークが入ります。
          (大)または(小)をご指定下さい。
                   
        いずれも1枚¥2,100(税込み)です。
        おつりのない様、小銭でご用意願います。
           申し込み〆切は5/21(土)
        商品は合宿までにお渡しします。
 
  合宿委員が決まりました=

今年度の合宿委員です。
皆さん、どうぞご協力お願いします。

<ソプラノ> 中野美嶺子、平原久美子、三井偉代、
             小宮憲子、羽深朱美
        <アルト>  内田りえ、豊嶋直子、槇 育子
             中出京子、浜松眞由美、青山道代
        <テノール>  佐々木秀夫

    ♪4月中に申し込み用封筒を配ります。5月の連休明けから
      受付を開始いたしますので、必要事項を記入の上、代金を
      入れて、合宿受付窓口まで提出下さい。
        (おつりのないよう、ご協力お願い致します)
                        合宿委員 S土肥明子
 
        ÌË 2005年5月&6月の練習日程 ËÌ
         
 4月
 5月
30日(土)
8日(日)
   

    
    
    
    





6月

14日(土)

21日(土)




28日(土)

  4日(土)
  5日(日)


11日(土)
19日(日)
25日(土)
 リリスホール             18:15 〜 21:30
 茅ヶ崎市民文化会館大ホール  18:15 〜 21:00
大ホール楽屋口(ジャスコ側)からお入り下さい。
  1F駐車場側からは入れませんのでご注意下さい。
 ・当日は舞台のみの利用となっています。
  客席には入れませんので、各自荷物は舞台横など
  にまとめて置いて下さい。舞台袖のコインロッカー
  もご利用いただけます。
 ・ホール内は飲食厳禁です。


 男声:玉縄学習センター       18:30 〜 21:00
 女声:明治公民館           18:45 〜 21:00 
 明治公民館(S、A、Tで24番を練習) 15:15 〜 16:30 
                   (全員)  16:30 〜 17:30 
                           (夕食・休憩)
                   (全員) 19:00 〜 21:00
 
リリスホール                18:15 〜 21:30

  é 合 宿              13:00 集合 
  ê  湘南国際村センター    17:00 解散
              ※詳細時間割は通信3月号参照
 
玉縄学習センター        18:15 〜 21:30
 リリスホール          18:15 〜 21:30
 明治公民館   (全員:ホール)18:30 〜 発 声
         (男声:文化室)19:00 〜 20:00
         (女声:ホール)    同 上
         (全員:ホール)20:00 〜 21:30
 
  ・会場により開始時間、終了時間が違っています。場所、時間ともに確認を!
  ・会場づくりのため、各会場とも練習開始10分前までにお集まり下さい。
      ・準備、片づけ、清掃まで、全員で協力して行いましょう!
     
  ☆ 5/21(土)は夕食をお忘れなく。バスのみ16:30からの練習となります。 
★ 6月から明治公民館、玉縄学習センターでの練習は、リリスホールと同様、21:30までとなります。ご注意下さい。        
  ☆ 6月から明治公民館駐車場は会館建て替え工事準備の為、使用できなくなります。   近隣の駐車場をご利用下さい。(周辺Pの案内図を受付にご用意いたします)
  ★ 合宿に関する詳細は通信3月号をご参照下さい。路線バス時刻表を受付にご用意いたします。その他合宿についての問い合わせはS土肥まで。