モーツァルトの教会音楽(ウィーン時代)
鈴木愼吾

 イドメーネオ上演のための、ミュンヘン滞在が4か月にもなってしまった頃、ウィーンに滞在中していたコロレド大司教から、出頭せよ、との連絡が入ってしまいます。すぐさまウィーンに出向いた彼は、食事の際には召使いと同じに扱われ、また泊まっていた宿を追い出されるなど、大司教のいやがらせや悪口雑言を受け、遂に辞職を申し出ることになってしまいます。その後、しばらく話し合いを続けていた大司教側近のアルコ伯爵とも決裂、伯爵は彼を足蹴にして追い出す事態となり、ここにザルツブルグ宮廷との縁は絶ち切られたのです。

 常識からすれば、長期無断欠勤した者を、雇い主が叱責するのは当然ですし、首を切られても仕方がないのですが、この場合は相手が悪かった。希有の大天才を召し抱えていることを、夢にも理解しようと思わなかった大司教コロレド伯と、ミューズの子を足蹴にしてしまったアルコ伯は、そのことによって二百数十年たった今日まで名を残すことになってしまいました。

 こうして独立したモーツァルトは、ウィーンに移り住んでいた、かつての恋人アロイジア・ウェーバーの母親とその一家のもとで寄宿生活を始めたのです。

これはウェーバー未亡人の目論見通りでした。娘4人を抱えて下宿屋を始めた彼女は、長女アロイジアを結婚させた後、三女の婿に、稼ぎ手となる男としてモーツァルトに目をつけたのです。もちろんコンスタンツェに対する彼の愛情は本物だったと思われます。しかし彼は父親あての手紙に、ウェーバー夫人によって、一方的な結婚契約書にサインさせられたという事実を書きながら、その事を一向に不利と思っている様子もなく、こんなところからも浮世離れした彼の性格を窺わせて、興味深い所です。

当初、ウィーンでの生活は順調でした。優秀なピアノ教師としても。作曲家兼演奏家としての公開演奏会は予約客で一杯。皇帝ヨーゼフ二世の前で行われた、イタリアの鍵盤の名手、クレメンティとのピアノ競演の完勝。そして、何よりも書きたかったオペラでは、ドイツ語による初のオペラ(Singspiel=歌芝居)「後宮からの誘拐」が大成功でした。もう、ザルツブルグ宮廷のために作曲する必要は無いのです。

 1782年、父親の反対を押し切って、ヴォルフガングとコンスタンツェは結婚しました。彼はこの結婚を神に感謝し、ザルツブルグへ妻を伴って行く時には、新しいミサ曲を作曲し、演奏しようと心に誓ったのです。それが未完の大作「ミサ曲 ハ短調」K427。この曲が、もし完成されていたら、バッハの「ミサ曲 ロ短調」にも匹敵する大曲になったことでしょう。ともあれ、1783年秋ザルツブルグの聖ペトロ寺院で、コンスタンツェのソプラノソロと、親しい友人の宮廷楽員たちの応援を得て、華やかに演奏されたのでした。

ウィーン時代のモーツァルトとの関係で見逃すことの出来ない人物がファン・スヴィーテン男爵です。この人は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、3人共に影響を与えた点で、重要な存在と考えられます。男爵は、外交官としてベルリンに赴任した時、かのフリードリヒ大王(老バッハは、この王に「音楽の捧げ物」BWV1079を献呈した。)と出会い、王の記憶に鮮やかに残るJSバッハの存在を教えられ、以来、忘れられていた、その作品を収集し、貴重なコレクションを持つことになったのです。

モーツァルトは、父宛ての手紙で、こう書きます。《私は毎日曜日、12時にファン・スヴィーテン男爵家に行きます。そこではヘンデルとバッハしか演奏されません。わたしは今、バッハのフーガを収集しています。セバスティアンばかりでなくエマヌエルとフリーデマンのものも、ヘンデルのフーガも集めています。こういう楽匠だけが、いまわたしの関心の的なのです》。これらの作品から学んだものは、完全に彼自身のものとして、以後の作品に深い彫りを加えることになるのでした。

1784年モーツァルトは、フリーメーソンへ入会します。フリーメーソンは国家、人種、階級を超え、平和的人道主義を唱える結社で、1738年ローマ教皇はフリーメーソンを弾劾する教書を出したのですが、先帝マリア・テレジアは統治権の侵害として、これを無視、その後、禁止された時期もあったものの、啓蒙主義を唱えた皇帝ヨーゼフ二世の下で勢力を伸ばしていました。

 その結社への加入の動機を、A・アインシュタインはこう書いています。《モーツァルトを結社に飛び込ませたのには、恐らく彼の芸術家としての深い孤独感と、心からの友情への欲求も、あずかって力があったであろう。アルコ伯爵によって足蹴にされ、大司教コロレドによって召使いあつかいされたモーツァルトは、結社においては、天才を持つ一人の人間として貴族と同列であり、同権であった。》教会と対立していた、この結社への肩入れが、教会音楽作品を少なくさせた一因かも知れません。1785年の名作「フリーメーソンのための葬送音楽」K477に、私はキリエ ニ短調と、極めて近いものを感じるのですが…。

「魔笛」K620がフリーメーソンをモデルに(あるいは風刺)しているのは、良く知られていますし、ご存知ですよね。

モーツァルトはウィーンに移ってから、僅か10年で、この世を去ってしまうわけですが、その10年間に夥しい作品を書き、特に最初の3年間で、人気は頂点に達する売れっ子でした。続く3年程は最も充実した時期。「フィガロの結婚」K492を完成し、その好評によって、プラハから、オペラ「ドン・ジョバンニ」K527の依頼を受けるなど、この間に創られた作品の質の高さは目を見張る程です。 問題は1788年後半から亡くなるまで、いわゆるモーツァルトは貧困の中で生活し、亡くなったというイメージが作られた時期です。

彼は本当に貧乏だったのか?一説によると、ウィーンではその頃、年600グルデン有れば普通に生活が出来た時代と言われます。彼の10年間の年収は、少ない年で、その2倍、多い年は6倍と、かなりの高額所得者だったらしい。

あの貧困のイメージは、晩年に書かれた借金を依頼する多くの手紙に由来するものですが、どうして彼は、そんなに困っていたのでしょうか?稼ぐに追いつく貧乏なしとは、昔、よく言われた言葉ですが、彼の場合いくら稼いでも遙かに出費が多かった。食い道楽、着道楽、住まいにも贅沢をし、使用人を多く使っていた時期もあった。そして悪いことにコンスタンツェも金銭感覚が欠けていた上、病身で、その療養にも多額の費用がかかった。

決定的なのはギャンブル。貴族相手のトランプによる賭け事に熱中して借金を重ね、自ら評判を落としてしまったと言うのですが…。その借金の返済をめぐるトラブルが、現在では否定されているとは言え、毒殺説の根拠ともなったらしいのです。でも、ギャンブル説は立証されている訳ではありませんし、モーツァルトファンとしては、余り信じたくは無いですね。けれど、神の子かと紛うような天才も、やはり弱さを持った人間であったとは言えるのでしょう。

 金銭的なトラブルに加え、ハイドンのような才能のある人以外には理解出来ないほどの高みに達していた彼の作品に、殆どのウィーン人が背を向け、 1789年の予約演奏会の名簿には、スヴィーテン男爵一人の名前しか無いという事態となり、もはや創っても演奏しても誰も聴かない、収入にならない状況に立ち至ったのです。

 この困難な現実の中で、最後の年、

1791年に創り出された作品の美しさ。ピアノ協奏曲変ロ長調K595、生活のために書いた何曲ものドイツ舞曲、クラリネット協奏曲K622、そして「魔笛」。既に彼の魂は現実を離れ、澄み渡った天空に昇りつつあったかのようです。あの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K618も、それらと同じ高みにあります。誰にも愛され、誰もが歌いたい、真の意味での珠玉の小品。でも、これほど難しい曲もないですね。澄み切った声と心だけが歌うことを許される。そんな風に思いませんか?

 「レクイエム」を書きつつ、死を予感していたモーツァルト。36年の、あまりに短い時を疾走し、人類の宝と言うべき作品を残してくれたモーツァルトに、それでも尚、せめて、あの「レクイエム」だけは、完成して欲しかったと、二百十余年たった今でも、人々は想い、惜しむ気持ちを持ち続けるのです。

グロリアバザーへのお誘い

©©© 湘フィル花喜園”©©©
   ことしはお花屋さん

今年もグロリア少年合唱団のバザーに出店します。

今年は季節の花を沢山取り揃え、バザーを盛り上げたいと思います。お花の好きな方、体力に自信のある方、お手伝いを宜しくお願い致します。

お手伝いが無理な方もぜひ遊びにいらして下さい=

新緑の鎌倉・・・日焼け対策も忘れずに> いつも良い天気ですから・・・。

日 時 : 5月3日(月・祝)10:00 14:00ぐらい

場 所 : カトリック雪の下教会 (鎌倉市小町2−14−4)

     地図を印刷して受付に置いてあります。必要な方はご利用下さい。
お手伝いして下さる方へ: 集 合  9:30頃 持ち物 エプロン、軍手、帽子等

         お名前を事前にS柏木までお知らせ下さい。

© このバザーの純益は、グロリア少年合唱団の活動費(演奏旅行等)の一部として、団長であり、指導者でもある松村先生に手渡されます。皆様のご協力を宜しくお願い致します。   (事務局 柏木)

vvひと口メモ vv




グロリア少年合唱団とは・・・


松村先生ご出身の合唱団であり、現在はご自身が団長を務めながら、その


指導にあたられている。湘フィルとは第8回演奏会バッハ“マタイ受難曲”


で共演。その頃より、バザーへの出店協力などを通して交流が続いている。


グロリア少年合唱団は、1959年鎌倉カトリック雪の下教会に創立された


この合唱団は、幼稚園から高校までの男子のみを規律ある団体生活の中で、


仲間と歌うことを通して愛と奉仕の精神を身に付けさせるべく、13年間に


渡って一貫したプログラムにより教育を行い、名実共にその機能と役割を果


たしてきた。ボーイソプラノ、ボーイアルトはもとより、変声後の団員とOB


が、テノール、バスを受け持ち、男子のみによる混声合唱を特色としている。


この様なヨーロッパの伝統的な教会音楽の合唱スタイルを守った合唱団は、


我が国では他に例を見ない。




  ♪新入団員の方にアンケートに答えていただきました

  @湘フィルを知ったのは? A湘フィルの印象、感想。B自己PR or 湘フィルへ一言。

  (A)O.Aさん

@ HPを見て
A 見学した時、皆さんは「讃歌」と 「イン・デュルチ・ジュビロ」を練 習していました。その音色の美しさに心を打たれ、すごい所にきちゃっ たなという印 象を持ちました。
B 合唱は初めてで不安もありましたが、先生方の熱心な指導と団員の皆さんの暖かい励ましを頂き、声を合わせ   て歌う喜びを知りました。   ありがとうございます

  (A)T.Sさん

@ 朝日新聞の広告を見て
A 女声合唱を楽しんできましたが、混声のすばらしさに感動しています。 ヴォイストレーニングもとても楽し みです。

@ 「ドイツ・レクイエム」「スタバト・   マーテル」の演奏会を聴いて。
A 緻密できっちりと充実した練習の中、 積み重ねてこられた自信のようなも のを感じます。
B 混声は久しぶり(高校の時以来?)ですので、皆様の足をひっぱらない   ように一生けん命歌おうと思います。

練習予定

2004年5、6月の練習日程
  5月   1日(土)
  8日(土)
 15日(土)
 22日(土)

 29日(土)

  玉縄学習センター      18:15 〜 21:00
  栄区公会堂          18:15 〜 21:00 *
  明治公民館          18:15 〜 21:00 ☆
  明治公民館          18:15 〜 21:00 ☆

  栄区公会堂          18:15 〜 21:00 *

6月
  5日(土)
 12日(土)
 19日(土)
 20日(日)

 26日(土)
  玉縄学習センター      18:15 〜 21:00
  明治公民館          18:15 〜 21:00
  合宿(湘南国際村センター)   12:30集合
   合宿の詳細は通信2月号参照。合宿に関するお問い合わせは   S土肥(п@0467-47-5150)         

  玉縄学習センター       18:15 〜 21:00      


☆グループボイトレがあります。(17:00〜18:00)
 各パートリーダーからの連絡にご注意ください。
*21:30まで延長練習の可能性がありますのでご承知おきください。

▲▽編集後記△▼                             

 おととしのクリスマス・コンサートのチャリティー先、ルワンダの吉田真美さんの活動が先日、NHKの「プロジェクトX」で紹介されました。ほんの些細なきっかけから単身ルワンダに渡り、孤軍奮闘されてきた姿に胸が熱くなりました。私がお会いした真美さんは、とても気さくで笑顔の素敵な方。はじめてお会いしたのに、昔からの知り合いのように話し込んでしまいました。茅ヶ崎教会の近くにご実家があるため、毎年教会のバザーにご夫婦で参加され、支援を呼びかけていらっしゃいます。今年のバザーは5月30日(日)。時間がありましたら皆さんも直接応援してあげて下さい。
                                                                                               Tama