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下坂幸三先生について

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 私が編集に携わった「心理療法のひろがり」「フロイト再読」という2冊の遺稿集が刊行されたのを機会に、2006年3月に惜しまれつつ亡くなられた、恩師である下坂幸三先生についてお話したいと思います。
 1929年に東京でお生まれになった下坂先生は、今では古典とされている論文「青年期やせ症(神経性無食欲症)の精神医学的研究」を1961年に発表されて以来、数々の論文や著作を通してわが国の摂食障害研究および治療を主導してこられました。1973年に順天堂大学医学部精神医学教室助教授の職を辞し、当時のわが国では極めてまれであった、自費診療による心理療法をおこなうことを目的とした、下坂クリニック(下坂心理療法研究室)を開設されました。境界例水準の重篤な摂食障害の患者さんを数多く治療するうちに、個人精神療法だけでは治療効果に限界があることを痛感された先生は、家族面接を治療構造の中に組み込むことで、こうした患者さんの治療に大きな効果が得られることを見出します。これは1980年代後半に「常識的家族面接」としてまとめられ、境界性パーソナリティー障害(境界例)および摂食障害の治療において、心理社会的治療が不可欠であることを世界に先駆けて―ガンダーソン(Gunderson,J.G)が境界性パーソナリティー障害の治療において家族を関わらせることの重要性に気付く10年以上前に―示した重要な業績とされています。
 境界性パーソナリティー障害の治療に家族面接を取り入れることの重要性、治療において患者さんやご家族が語る言葉の用い方を、一つ一つ検討し吟味していくための方法など、私が下坂先生から教えていただいたことは数え切れません。ここでは「フロイト再読」において書かせていただいた「編者あとがき」を以下に掲載して、先生の臨床姿勢の一端をご紹介することにしましょう。

           
編者あとがき

                   黒田クリニック  黒田章史

 ずいぶん前に下坂先生と学会でご一緒して、2人きりで夕食を摂ったことがあった。そのときになぜか坂口安吾の話になって、大空襲のおりに安吾はわざわざ銀座のビルの屋上で見物していたらしいけれど、あれはいったいどういう神経なのだろうかと私が訝(いぶか)ったら、「ああ、僕もやっていたよ。わざわざ防空壕から抜け出して、ずうっと立って見ていたのさ。べつに胆が据わっていたとか、そういうことでは全然ないなあ。とにかくあまり綺麗なもので、なんとなく這い出して見物してしまっただけだもの」と、こともなげに先生がおっしゃったことがある。このエピソードはのちに「昨今の青少年犯罪と境界例の構造」に登場する少年Bとして公にされることになる(本書第 部第 章)のだが、その当時の私は先生と安吾に相通ずるところがあるなどと考えたことはなかった―たしか先生は安吾がお好きではなかったはずである―から、少々意外の念に打たれると同時に、ああやっぱりとも感じていたように思う。「常識的家族面接(晩年の先生は家族「療法」という言葉を好まなかったから、本稿ではこの用語で統一する)」を提唱され、晩年には中庸の治療的意義について強調してやまなかった先生には、しかし間違いなくある種の生理的な過激さがあった。形あるものがすべて破壊され、無に帰していく中に「嘘のような理想郷」を観て取り、戦(おのの)きながらも惚れ惚れとその美しさに見とれ、しかしそれは人間の真実の美しさではない、ただ人間へと戻っていく(「堕落」する)こと以外の中に、人間を救う便利な近道などないのだと説いた安吾が、ただ過激だけの人ではなかったのと同じように。
もちろん先生の過激さは安吾のそれのようなわかりやすいものではなかった。「外見はもの静かでも、一種過激な」方法であるとは、先生がフロイトの自由連想法を評して述べられた言葉(本書第1部第3章)だが、この言葉はそのまま先生ご自身に当てはまるように思われる。そしてこの比喩さながらに、先生の過激さはまず臨床の場において、あるいはスーパービジョンの場において患者や家族が、あるいは治療者が語る言語の用いられ方を、外見は微温的と見えるほどに物静かに、しかし苛烈に探究するという形をとって現れることになった。「日常的な言葉、つまらない些細な言葉であればあるほど、臨床では怪しいと思わなければならない」、「患者や家族が話した言葉を、もとの文脈まで立ち戻って、それこそ患者や家族を<生き字引>にして、繰り返しを厭わずに聞いてみるとよい。たとえ全く同じ言葉であっても、同じ用いられ方をしていることはまずないものだ」といった言葉は、先生に示していただいた教えの中でも特に印象深いものである。意外なことに─いや先生はオースティンをはじめとした言語行為論に関心をお持ちだったから、意外でもないかも知れないのだが─これは分析哲学を専門とする哲学者野矢茂樹の、以下のような発言と照応する。
「僕らがやろうとしている仕事の特徴は、ふだんなにげなく使っている言葉を、どういう意味で自分は使っているのか明確にすることです。それはすごく難しい。<心>なんていう言葉を気楽に使ってくれるなというのが、最初の哲学の教訓ですね・・・(中略)・・・哲学のプロは素人とどこが違うかというと、問い方が違う。抽象的なものを抽象的なままに掻き回していって、下手をすると言葉遊びになってしまうようなレベルから、自分の頭で考えることができ、かつ人と議論していけるようなところに問題を落としていく。そこが、すごく大事で、具体例は本質的に大事だと思います」
野矢の言葉をもじって言うならば、心理療法を志す者に対する先生の最初の教訓は以下のようなものであるといえるだろう。治療をおこなう場合であれ、スーパービジョンをおこなう場合であれ、たとえば<毅然とした態度>とか<怖れ怯えていた>とかいう言葉を気楽に使ってくれるな、さもなければ抽象的なものを抽象的なままに掻き回していって、下手をすると言葉遊び(認識(あて)の(ず)大飛躍(っぽう))になってしまう(本書第1部第5章)。あいまいな認識に基づいて「考える」のではなく、患者が、そして家族がそれらの言葉を現実にどのように用いているかを、家族面接を多用しながら詳細に観察し、できる限り多くの具体的用例を収集せよ。そうすれば治療者が自分の頭で考え、かつ患者や家族と議論していけるようなところに問題を落としていける―あるいは当初「問題」と見えたものが、解決されるというよりもむしろ解消される―ことだろう。患者や家族の言葉を「なぞる」ようにして聞き、コミュニケーションの躓(つまづ)きを粘り強く顕在化させることを通して、先生がまず目指したのは、以上のような治療過程を導入することだった。
しかしここで言うところの「観察」を通常の自然科学的な、あるいは従来の記述精神医学的な観察概念と同じであると受け取ってはならないだろう。終章として収められている「葬られた思想家 橋田邦彦」という講演は、先生における観察がどのようなものであったかを明らかにしている。橋田邦彦は、「私は~と思う」という超越論的統覚のはたらきによって、混沌とした表象を秩序付け、構成していくという、カント以来の構成主義的認識論とは対極的な立場から自然をとらえ、観察していこうとした優れた生理学者であった。
橋田の主張の概要は先生ご自身の講演に詳しいから繰り返しを避ける―ただし主題として論じられたのはこの時が初めてではあったが、橋田邦彦に対する先生の傾倒ぶりはそれ以前から並々ならぬものがあったことは特記しておきたい。たとえばずいぶん前に先生のご著作を頂戴したおり、何か一言とお願いして表紙の裏に書いていただいた言葉は「唯(ゆい)従(じゅう)自然(しぜん)」であったし、先生の机の上のノートのひとつは「橋田邦彦」と題されてびっしりと書き込みがなされていた―が、自然科学的観察をおこなう際に、観る者と観られる物を対峙するものして捉えるのではなく、観る者をも世界の中に入れて、世界の中に自分を見る「無我の立場」―これを橋田は「純客観の立場」とも「観(み)るものなき観(かん)」とも呼ぶ―を基本とした、立論の独自性はやはり強調しておくに値する。
ここで無我という言葉が使われているからといって、なにも橋田は悟りのごとき特別の境地を指していたわけではない。「私が音を聞く」「私がものを見る」とはいっても、私というものがまずあって、それが聞いたり見たりするわけではなく、「聞こえている」「見えている」という事態がまずはあるだけなのだが、われわれはそれをあえて言挙げするときに「私」という言葉を用いるしかない―したがってわざわざ言挙げしないならば、私など存在しない(無である)―というほどの、日本語話者にとっては当たり前(じょうしきてき)の(しかし当たり前(じょうしきてき)に過ぎて滅多に注目されることのない)ことを指しているに過ぎない。すなわちまず主体があってそれが客体を観るのではなく、ただ「観(み)るものなき観(かん)」だけがあるような観察を、橋田にならって先生もまた実践しようと志しておられたのである。
このような観察の仕方を、先生は「表面分析(Oberflächenanalyse)」と呼んで極めて重視されていた(本書第1部第5章)。これは患者の心の表面・表層を、家族面接を多用しつつ、「私」を働かせることなく、とことん明らかにしていくという―心理臨床においてこれまで大きく欠落してきた―観察法である。
たとえば患者が繰り返し手首を切る、食べ吐きをするといった症状は、もちろんまずは問題行動(悪いこと)として取り上げられることになるのだが、それだけでは患者の症状の表面、心の表面をとことん極めつくしたとは言えないと先生は考えた。そこで先生は―「水清(す)んで徹地なり(地面が透き通って見える)、魚行(ゆ)いて魚に似たり(「坐禅箴」)」と観た道元のように―患者の心の表面を通して容易に透けて見えてくる、患者にとって症状が持つ利点(良いこと)もまた「ありのまま」に観察する。しかし先生の「表面分析(Oberflächenanalyse)」はそれにとどまることは無い。内外のストレスを一瞬ではあるが緩和する、自己の存在感を感知できるといった、さまざまな利点(良いこと)を充分に明らかにしたうえで、先生は再び問題行動(悪いこと)を問題行動としてさらに観察していくことになる。
これらの過程を通して、「問題行動」は「問題行動」でありながら「利点」へと融入し(「問題行動に似たもの」になり)、「利点」は「利点」でありながら「問題行動」へと融入する(「利点に似たもの」になる)。全く同じように、先生の臨床観察においては「転移」と「転移ならざるもの」、さらには「個人面接」と「家族面接」という、一見すると別個と見えるものが、それぞれの「本質」によって縛られないような形で再分節されることになる。すなわち「常識的家族面接」は、常識では考えられないほどの自由さを孕んだ動的過程であった。そして先生にあって「観(み)るものなき観(かん)」とはこのような実践を指していたのである。
以上のような観点から言うならば、感情移入(共感)も、従来の記述精神医学的面接も、ともに世界を構成する主体が、それに対峙する客体に対して関わる仕方であるという意味では、見かけほどに異なってはいない。これらの立場にとどまる限り、どこまでいっても、これまで述べたような意味での「表面分析(Oberflächenanalyse)」を繰り返し、やり通すことはできないのであるから。そしてもちろん先生に言わせるなら、面接の場で見えている患者や家族の振る舞い、聞こえている言葉と、「自己」とを回互(えご)転回(てんかい)させる(他を転じて自とし、自を転じて他とする)という治療者の「行」こそが臨床観察であるということになろう。先生は感情移入(共感)と、従来の記述精神医学的面接という2つの立場の、いずれでもないような仕方で患者や家族と関わっていく方法を、橋田のおそらくは道元を淵源とする「観(み)るものなき観(かん)」という立場から学ばれたのだと思う。そして当然にと言うべきか、先生にあっては橋田と同じく「研究が求道であり、求道が研究」であり、下坂クリニックとはその実践のための道場であった。
科学史家の金森修は、世界を自己以外のものとして外化し、それを外側から分析するという、従来の認識論を超える可能性を橋田に見出し、「私には、橋田の独創的な模索が、その後の我が国の科学にほとんど痕跡を残していないように見えることが残念でならない」と述べているが、先生の「常識的家族面接」とは、橋田を最良の意味で現在の心理療法ならびに精神医学の領域へと活かそうとする試みであったように思われる。
最後に本書の成り立ちについて少しだけ説明しておくことにする。さきに刊行された「心理療法のひろがり」とは異なり、本書は下坂先生ご自身が大まかな収録原稿の指示を書肆に出されてはいたものの、全体の構成の決定および校正の段階までには至っていなかったものである。したがってどの論文を本書に収めるかを選択する段階から、中村伸一氏と私が繰り返し検討を重ねた上で、先生のご遺志を忖度しつつ決定していかなればならなかった。微力ながらも最善を尽くしたつもりではあるが、僭越な振る舞いであったことに変わりはなく、今は先生のご宥恕を乞うしかないという心境である。
「子(し)能(よ)く熟讀翫味(がんみ)、得(う)ること有るときは、則ち予(よ)と生相(せいあい)睽違(けいい)し、地を阻(へだ)て世を隔(へだ)つと雖(いえ)ども、一堂に相聚(あいあつま)って、終日論議するが猶(ごと)く、心(しん)心(しん)相照(あいてら)して符節を合せたるが若(ごと)く、自(おのずか)ら相(あい)違(たが)うこと莫(な)けん。勉めよや怠ること勿(なか)れ」(伊藤仁斎「童子問」、清水茂校注、岩波文庫、p17、1970)
本書を編集する中で行き当たった「童子問」の文言である。孔孟の二書(「論語」「孟子」)を熟読玩味し、得るところがあるときには、たとえ私と離れ離れに生きることになり、場所をへだて、異なる時代にあったとしても、一堂に会して終日議論するように心(しん)心(しん)相照(あいてら)すことができると仁斎は言う。下坂先生にあって二書とは差し詰めフロイトと道元であろうか。「勉めよや怠ること勿(なか)れ」との仁斎の言葉は、先生がわれわれに残してくださった言葉でもあるように思われる。



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