アニメの歴史についての本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。
──『ダロス』は失敗であった。
予備知識のない方のために、少々説明。
1983年。まだ世にビデオデッキがあまり普及していなかった頃、世界に先駆けて作られた世界初のオリジナル・ビデオアニメーションである。20年前からアニメのファンだった人は、名前だけでも知っているはずだ。
『ダロス』は、月面開拓民ルナリアンと地球統轄局との相克を描いた、れっきとしたSFである。
地球の人口増加と資源の枯渇を解決するため、開始された月面開拓プロジェクト。だが、それは失敗すれば地球の経済を破滅するほどの冒険であった。幾度かの悲惨な事故を経験しながらも月面開拓に成功し、繁栄を享受した地球統制局は、月面で労働に従事する者の安全を確保するためには徹底的な管理しかないと結論、番号管理に踏み切った──。この真面目なバックグラウンドの元、物語はスタートする。
主人公は、月面開拓民三世の少年、シュン・ノノムラ。祖父も父も、鉱石採掘夫である。幼なじみのレイチェルと空港に行ったシュンは、統轄局軍事司令官アレックスとその恋人メリンダが再会するシーンに出くわすが、だれかがメリンダに向かって投擲。シュンは容疑者として捕らえられてしまう。無実とわかったものの、釈放はしてもらえなかった。
理由は、バーソロミュー事件の首謀者として、土星送りになってから消息不明となっている兄のせいだった。
理不尽な逮捕に悩むシュン。
だが、その窮地を救ってくれたのは、かつて兄の同朋であり、過激派ゲリラのリーダー、ドグだった。
──こう書いていくと、積極的にシュンがゲリラに参加し、統轄局とゲリラとの激烈な戦いが展開、ゲリラが勝利してルナリアンの自治を獲得する――といったフランス革命的な結末を想像したくなるのだが、そうはならないところが『ダロス』である。
確かに、ゲリラ側の意気は揚がっていく。ゲリラと統轄局との戦いも熾烈になっていく。統轄局が仕掛けた爆弾によって、レイチェルの両親とシュンの母親も爆死、反統轄局感情も盛り上がって、物語は月での市民革命を目指しているように思われる。
だが、そこで上がってくるのが、ダロスなのだ。
月面の裏側には、開発時に科学者が作ったと思われる人工建造物が存在している。
ダロス。
開拓民一世の人たちは、その奇妙な顔をそう呼ぶ。永遠に地球の姿を拝めない開拓民にとって、ダロスは彼らの心の支えである。だが、開拓民三世にとって、ダロスはただ得たいの知れない建造物だ。畏敬の象徴ではない。統轄局のリーダー、アレックスにとっても同じである。
物語は、統轄局たちがダロスを破壊したことから、ゲリラとは無関係の開拓民一世までもが採掘作業をボイコットすることでクライマックスへと進展していく。だが、ダロスが自己修復してしまうと、途端に手のひらを返したように開拓民一世のおじいさんたちは仕事に戻ってしまう。統轄局とゲリラとの戦いも、自己防衛機能を身につけたダロスによって、双方徹底的に破壊され、宙ぶらりんのまま、闘争は終わってしまうのだ。
かくして、再び日常が始まる。月面開拓民は仕事に戻り、また真空の世界へ出ていく。ドグたちゲリラがやったことは、いったいなんだったのか。まったく世界は変わっていないではないか。
確かに、レイチェルも、シュンも、ゲリラに加わることを決意するが、物語はそこで終わってしまっている。世界は一見、何も変わってやしない。
だが、だからといって『ダロス』を中途半端と言うことはできまい。エンタテインメントが気持ちのいいものであり、市民革命の成功や、作戦の遂行、人質の救出といった、ある事態の大団円的解決を目指すべきものであるとするならば、確かに『ダロス』はエンタテインメントとして成立していない。
しかし、実験としては、つまり、マニアだけが喝采してよろこぶ「アニメ」ではなくて一つのジャンル、一つの試みとしての「アニメーション」としては、成功なのだ。誰が、アニメーションを通して、階級闘争を描き得たであろうか。SFという体裁を取ってはいるが、『ダロス』は階級闘争と、そのなかに生きる人々を徹底的に描いた社会派リアリズムなのだ。
エンタテインメントとして円環を閉じていないからつまらない、だから「失敗だった」と言い切るのは、あまりにも浅薄すぎる。あまりにも迂闊であり、おおよそ活字に耐えうる発言ではない。「自称」アニメ評論家には、もっと勉強してもらいたいものである。